トリスタン
ダ
クーニア
文・写真:John Ekwall、Jan TunEr.
南太平洋ツアーにて
(97年12月から98年1月)
参照:www.sthelena.se.
日本語訳:山本 睦徳
トリスタン・ダ・クーニア
―世界でもっとも隔絶された孤島―
トリスタン・ダ・クーニアを訪れることは、
もうひとつの世界、人生、そして時間にめぐり合う事だ
南緯37度、西経12度、セント・ヘレナ島から2000km、南アフリカの喜望峰から2800km離れたこの島は、海面からそびえたち、その火山の山頂には常に白雲がかかっている。南大西洋にあるこのトリスタン・ダ・クーニアの夏は12月から3月にやってくる。冬の期間、標高2010mある島中央の山頂には雪がかかる。
島の形はおおむね直径約10kmの円形で、全面積は78kuで、北西部に5kuだけ平らな土地がある。細い谷と溝が山頂から放射状に延びている。この島は「荒天の40度台」にあるため、雨の季節には斜面を激流が流れ、鉱物がふもとに運ばれる。島の北西部には堆積物が平らな土地をつくり、島民がジャガイモ畑を作っている。
周囲40kmの海岸は荒れ狂う嵐の海にさらされ、玄武岩の雄大な絶壁を作り出していて、ある場所では600mの崖となる。周囲の海は魚が豊富で、イセエビの主な産地となっている。イセエビは捕獲された後冷凍され、南アフリカを経由して、高級食品としてアメリカや日本に送られる。
そのほかのこの島の主な収入源は郵便切手の売り上げである。世界中の切手収集家がここの切手を集めている。
ポルトガルの航海士、トリスタン・ダ・クーニアはブラジルから喜望峰に向かっているときにこの島を発見した。しかし、海が荒れていたため、彼はこの島に上陸できなかった。最初にこの島に上陸したのはアメリカ人で、ジョナサン・ランバート船長であった。彼は1811年に上陸して、すぐにトリスタン・ダ・クーニアの完全領有権を主張した。しかしあいにく彼は1812年漁をしているときに一緒にいた2人の男とともにおぼれて亡くなった。
1816年英国がこの島を併合し、その当時セント・ヘレナ島に島流しにしたナポレオンを救出する計画をしていたフランスを威嚇するために、駐屯地を設営した。
結局のところ、この地に村を築いたのはスコットランドのケルソから来た海兵隊ウィリアム・グラスであった。駐屯地から海兵隊の任務を終えた後、彼は妻と2人の子供、2人の友人、有色人の女性1人、を連れてこの島にもどってきた。駐屯兵が島を去った後、この島の住人は6人となった。
1867年エジンバラの公爵でヴィクトリアの2人目の息子、アルフレッド皇太子が世界旅行の途中でこの地を訪れたとき、溶岩のブロックで建てて麻で葺いた屋根の家がたった11件あるだけであった。そしてこのときこの地はエジンバラと名づけられた。
今日のエジンバラは300人の誇り高く親切な人たちが在住している。地域全体で7つのみよう字しかない。しかし島の住民たちはネルソン艦隊やアメリカ人、イタリア人、オランダ人、セント・ヘレナやアフリカから来た白黒混血人から構成される。英語が母語だが、初期のアメリカ人の影響でジョージアのなまりがまじっている。
トリスタン・ダ・クーニア周辺の海は青く、夏は暖かい。絶壁の上の平地は緑に覆われている。北西の端の海面より少しだけ高い土地には人が住むのに十分な場所がある。南西の少し出っ張ったところでは放牧されていて、また有名なジャガイモ畑がある。
トリスタン・ダ・クーニアと隣接する島、インアクセッシブル島とナイチンゲール島は鳥類学者にとっては夢の場所で、より大きなシアウォーターやプリオン、ストームペトレルを含む14種類のウミツバメ、ロックホッパーペンギン、黄色い鼻のアホウドリ、ワタリアホウドリが生息している。
島には近代的なものがなにもないように思われがちだが、実際は水道や電気、下水施設はすべて完備されている。小さいながらも興味深い博物館や工芸の店、水泳プール、ラジオ局もある。古い様式の店や大きなスーパーマーケットもある。
トリスタン・ダ・クーニアの人たちは家族の絆を大切にし、高い道徳性を持っている。島では自給で経済を支えており、所得税は年間1ポンド以下という条件を与えられている。深刻な犯罪はなく、失業は存在すらしない。1961年にはげしい噴火があり、島民は島から非難することを余儀なくされた。彼らこそが島に文明をもたらしていたのだ。噴火が収束するとほとんどすべての島民は島に帰った。
この島は「世界一の絶海孤島」と呼ばれる。家々にはユニオンジャックが掲げられる。人々の心は昔から温かく、温厚である。
トリスタン・ダ・クーニア ―世界でもっとも隔絶された孤島―
日本語訳:山本 睦徳